Amartya tis Theos
触れもしないうちから喪失は知っていた
白。いつの間にか見なくなってしまったもの。赤。いつの間にか見えなくなってしまったもの。
想えば想うほどに、その胸の空白は埋まらないことを知る。
もういなくなってからいくつの年月が経ったのだろう。
それももう、数えるのはやめてしまっていて。
あといくつ年月を過ぎればいいのだろうと思うばかり。
オーディンは今日も、白き薔薇を手に佇む。
深き森で、誰も知らないような場所。そこで彼女は眠っていた。
風が頬をくすぐり、木々の声が囁く。
澄んだ泉がオーディンを映す。映されたものには視界にも入れない。
この黄昏の目には、もう何も映してなんかはいないのだ。
「……フリッグ。もし、あの時。お前を守れたりしたら、きっと今頃は……」
きっと今頃は、花を咲かせるような笑顔を、自分に向けていたかもしれない。
きっと今頃は、こんな白だの赤だのを嫌いになることだなんて、なかったのかもしれない。
そんな志方のないことを頭の中を駆け巡る。
彼女の眠っている場所は、オーディンと彼女だけの秘密だ。
思えば。
触れもしないうちから喪失は知っていたのかもしれない。
思えば。
喪失を知っていたから触れもしなかったのかもしれない。
そんなことばかり考えても仕方のないことだってわかりきっているはずなのに。
今宵はどうもそれが止められそうにもなく、それがまたオーディンに苛立ちを覚えさせた。
眠る彼女に白き薔薇を渡し、隣に座りこむ。
今日は、どんな話をしよう。この話をしたら叱られてしまうだろうか、逆にこの話をしたら喜んでくれるだろうか。
その話を聞いてくれる彼女は、もうこの世にはいない。
果てにて眠る彼女はただ、傍にいるオーディンに様々な話をさせることしか出来ないのだ。
そんな事実。知ったこっちゃあない。
そんな事実。わかりきっている。
だけどこうでもしていなけれど正気と言うものは保てやしないのだ。全知全能とまで呼ばれたオーディンという男は。
全知全能の神であり北欧の主神オーディン。
幾多の喪失を抱え、明日もまた、喪失を重ねていくのだろう。